スポーツ・遊び・からだ・人間: バドミントンのルール変更(2006年)の意味を「深読み」してみる。
矯正するということに疑問をさしはさむ余地はない。しかし,矯正をしすぎるとどうなるのか。本来のあるべき姿が消えてしまって,まったく別のものになってしまう。本末転倒ということだ。
もともと曲がっているのが牛の角だとすれば,その曲がっている角を「矯めて」まっすぐにしたら,それは牛の角ではなくなってしまう。つまり,「牛を殺す」ことになってしまう。
バドミントンのルール変更(2006年)は,「角を矯めすぎ」ではなかっただろうか。そんな不安がふとよぎる。バドミントンの長い歴史を考えると,バドミントンそのもののあり方を根源から変化・変容さける,いい意味でも悪い意味でも「画期的」なことだったとわたしは考えている。だから,これは「ルール変更」であって,「ルール改正」とは言わない。
なぜか。「ルール変更」の内容や,それらをめぐる議論はひとまず措くとして,結論から入っていくことにしよう。
たとえば,プレイをする選手の側からすれば,突然,天から降� �てきた「ルールの変更」である。選手たちは,ただひたすら,その「ルール変更」にしたがってプレイすることを強いられる。それしか方法はないのである。なぜなら,そうしないかぎり,選手は試合に出場することができなくなるからだ。つまり,「ルール違反」を犯すことになるから。(このことを,ベンヤミンは,権力による「法措定的暴力」と名づけた)。
"国際的な滝にニューヨーク·ガトウィック空港からのフライト"
それに対して,バドミントンという競技を統括し,管理・運営する組織体であるIBF(国際バドミントン連盟)は,これまでのバドミントンのルールに,なんらかの不都合を感じていた。その不都合を解消しようというのだから,こちらの側からすれば「ルールの改正」ということになる。そして,そのルールの改正を「是」として,それを「維持」していくことに全力を傾ける。(このことを,ベンヤミンは,権力による「法維持的暴力」と名づけた)。
言ってしまえば,選手の側からすればたんなる「ルールの変更」であり,IBFの側からすれば,なにがなんでも実行しなければならない「ルールの改正」だ。ここで考えなくてはならないのは,「ルールはだれのためのものなのか」という点である。
もともと,バドミントンは「羽根突き遊び」から派生したスポーツだ。だから,「羽根突き遊び」のルールは,その遊びをする人たちの都合のいいように決めた(厳密にいうと,「羽根突き遊び」のルーツには深い呪術的な意味があって,そのコロモロジーや神話にもとづいて,最初の「約束ごと」,つまり「ルール」が決められた。その後,紆余曲折を経て,しだいに近代化の道を歩むことになる)。つまり,プレイヤーの論理が優先した。すなわち,この遊びをもっと面白くするに� ��どうしたらいいかとプレイヤーたちが智慧をしぼって,初期のバドミントンの「ルール」が工夫された。
ここで、本の斧が行われますか?
やがて,このバドミントンが近代スポーツ競技の仲間入りをすることになる。このときから,バドミントンという競技を統括し,管理・運営する組織が誕生する。つまり,競技をする選手と,管理・運営する団体との二極化がはじまる。当然のことながら,この両者は,ときには利害が対立することも起きる。そして,そのつど,両者は話し合いをとおして「折り合い」をつけてきた。
しかし,2006年の「ルール変更」はそうではなかった。選手の側の論理はほとんど無視されて,管理・運営する統括団体の論理が最優先されることになった。そのポイントは,試合時間の短縮(持久力よりも瞬発力重視),テレビ放映の都合(試合の途中にコマーシャルを流す時間を確保するためのルールの採用,など),テレビ観戦者の論理(ルールの単純化,競技のスピード化,など)を優先させることにあった。(本来はここを詳論する必要があるが,割愛)。
この「ルールの変更」は,なにを意味しているのか。
ここも一足飛びにして,結論へ(じつは,経済のグローバリゼーションというとてつもなく大きな時代の要請というものがあり,スポーツもその波に呑み込まれているだけの話)。
バドミントンという競技の「金融化」。選手の「商品化」。つまり,バドミントンの商品価値を高めること。その主役を担うのは「選手たち」だ。テレビの視聴率を上げるための「道具」立ての一つとして,選手という「商品」を位置づけ,その価値を高めること。
どのように多くのメンバーUSAA女子ソフトボール
もう少しだけ踏み込んでおけば,オリンピックの正式競技種目の仲間入りをはたすには,高い放映権料を担保できる「人気」が不可欠の条件になった,ということだ。だから,バドミントンという競技を「金融化」して,自由に取引できるようにすること,それが「ルール変更」の背景に見え隠れしている。少なくとも,わたしにはそうみえる。
選手は使い捨て。バドミントンという競技の特性や特質などは考慮の外。少しでも多くの人が「面白い」と思ってくれればそれでいい。最終ゴールは「ラケット種目」のナンバー・ワンになること。テニスを押し退けて。その地位を確保するためには「なりふりかまわず」,できることはなんでもやる,という発想。ここに危険な落とし穴が待っている・・・・とわたしは危惧するのだが・・� ��・。(じつは,原発推進と,まったく同じ構造をそこにみる)。
そんなことはどこ吹く風。テニスを凌駕すれば,バドミントンはオリンピックの正式競技種目として安泰である。ただ,そのことのための「ルール改正」だとしたら・・・・。これを「改正」と呼ぶことができるだろうか。ベンヤミンのいう「法措定的暴力」や「法維持的暴力」が,いま,まさに,スポーツの世界で席巻している。
この構造や,ここに働いている力学は,「ゲンシリョクムラ」のそれとほとんど瓜二つだ。このことはあらためて指摘するまでもないだろう。(ほんとうは,もう少し詳細に比較検討をする必要があるのだが・・・)。しかし,このような視点を提示する「スポーツ批評」は残念ながら,いまのところ,見当たらない。
以上の論考が,単なるわたしの「深読み」にすぎないことを,わたし自身がどれほど願っていることだろう。しかし,現実はもっともっと根深いところにある。ここに取り上げた視点は,まだまだ,ほんの氷山の一角にすぎない。
これからもっともっとエネルギーを蓄えて「スポーツのグローバリゼーション」解体の作業にとりかからねば・・・と憂慮する,今日このごろである。
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