Being Between Neuroscience And Marketing
Being between Neuroscience and Marketing
灼熱の夜の妄想
海外から帰ってくる度に気付くのは、日本の若い女性たちの華やかさだ。花としての魅力を全開に歩いている姿に毎度、新鮮に息をのむ。
自分が港区界隈で働き、渋谷、代官山の周辺が行動域のためか、キレイな女の子を見る機会には事欠かない。彼女達は実にオープンに足を出し、オンナとしての自己表現に熱心だ。
どぎついメイクを日本人はしないと言っていた時代は遠くに失われ、もはや本当の目がどうであったのか、にわかに認識できる人も少ない。その辺りのお店で何か食べていても、お店のウェイトレスのあまりの目の大きさにオドロキ、よく見るとフチドリと、マスカラだった、ということは実に多い。
とりわけ強烈なのは、ご案内の通り、10代後半を中心とするいわゆるギャル層で、彼らは信じられないほど短いミニスカートや短パンをはき、胸元を強調していたりする。20代前半で卒業するのが大半に見えるが、例外的に、六本木の夜の場合はコレが20代後半まで続くようだ。一歩日本を出れば、売春婦、ひいき目に見てもステージ歌手ぐらいしかしないレベルの露出度だ。
この衝撃を受けるたびに、ああ平和な日本に帰ってきたなぁと実感する。あれだけの震災、原発事故があった後も変わらない、何とも言えない不思議な感覚だ。
"A little bonita" Contax T2 @São Paulo, Brasil
父が面会のために物資を提供する必要がありません先日、安西洋之さん、中林鉄太郎さんと、お二人が日経ビジネスオンライン上で連載されている「ローカライゼーションマップ」関連で対談することがあり、いくつか随分面白い議論をした。その中の、議論のポイントの一つが、「異なる文化の価値観、世界観の違いを、現地に行くことなく理解することは可能か」というものだったのだが、これに対して僕の考えは明らかにNOで、正直むずかしいと思う、と答えた。
このブログの中でも以前書き、拙著の中においても触れた通り、脳神経系にとって「理解する」ということと「二つ以上の既知の情報が重なり合う」ということの区別はない。「理解する」という生物学的な現象があるわけでなく、神経の上で複数の情報が重なり合った時に、その複数の情報に関連性があることを学ぶ、それだけだ。限りなく論理的につながり合っている現象であれば、アタマだけで理解することもあり得るのかもしれないが、それは少ない。実際、「体験なしに深く理解していると自分が言えるものを例として挙げてみろ」と言われてみると、ほとんどの人が多くを挙げられないと思う。
一方、異なる文化、例えば米国において、マヨネーズが日本と異なりガラス瓶に入っており、その色がほとんど白に近いということだとか、高級車もサイドミラーをたたまないし、たたむ必要すらない、ということだとか、という事象は一つ一つは確かに微妙に関係して相互に影響し合っているかもしれないが、それに明確な論理的な上下関係があるわけではない。ただ単に、その生活空間におけるニッチを埋めるべく全体としてデザインされているだけだ。
ベラは何を意味する結果、文化的なコンテキストというのは、どのような社会であれ、住んですべてが整合した社会に入ってみないとほとんど理解できない。アメリカでは10万人いれば大きな町で、そんな規模の町にゼロックスの本社やGEキャピタルの本社が、森に囲まれて立っているとか、そこに多くの人がクルマで通ってきて、千台規模の駐車場に囲まれるようにオフィスが建っているとかというのは、見ない限り日本人には到底理解できない。大きな町というのは少なくとも50万人はいるところで、世界的な大企業というのはクルマ会社でもない限り、都心にあるはずだ、と思うのが日本の通常だからだ。
これらを1セット、正しく理解するためには、どうしてもその社会に行き、少なくとも何ヶ月か日本食も、日本語も、日本的な電車通勤も捨て、その土地の人のように食べ、動き、その土地の人のように生活することが必要だと思う、そう答えた。(全くこれと同じ理由で、僕はアメリカに留学などで行く人の相談に乗るたびに、クルマを買え、と必ずアドバイスすることにしているが、これについてはまた別の機会に触れられればと思う。)
このレベルの理解がないと、確かに、お二人がおっしゃる通り、日本から持ち込んだ商品が全く刺さらないとか、理解されない、東洋からのエキゾチックなものに落ち着いてしまい、大きく受け入れられない、ということがよく起こる。
バイアスは何を意味するもちろん偶然の成功はあり、また、それほど文化的なコンテキスト(文脈、脈絡)が激しくない部分ではそれなりにうまく行く。例えば筆記具は、正直コンテキストがそれほど強くない分野のように見える。人間の手の大きさなど、どんな国でも日本の相撲取りや、NBA選手のように巨大な人もいれば小さい人もいるが、大体はそれほど違わない。僕が米国のニューイングランドに住んでいる時も日本から来たDR.グリップはゼブラやパイロットの水性ボールペンと並んで、Staples(北米の巨大オフィス用品チェーンの一つ)でもよく売っている人気商品だった。モンブランは世界のどこに行っても、人気のある高級万年筆だ。
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で、日本の若い女性達に戻る。
今の20代後半の女性達の多くも、五年前ぐらいはあのような感じだったはずだが、今は全くそういう様子を見せない。これは何なのだろうか?こういうことに対してある程度肌感覚を持って分かるかどうかが、その土地なり文化に対する理解と言えると思うのだが、どうだろうか。
一つ面白い考察がある。彼女達は、オンナとしての期間を自ら圧縮することで、特権的な「女の夢」を手に入れた、というのだ。
今の若い女の子達は女としての命を極端に切り詰めることによって、ふつうなら決して手に入れない特別な輝きを持つ時間を手に入れたのさ。(中略)たとえばここに植物が一株あったとする。蕾はたくさんついているが、植えられている環境が良くないのでたいした花は咲かせられない。ところがこの株の蕾を一つだけ残してすべて摘み取ってしまうと、不出来の株でも大輪の花を咲かせられる。
若い女性達の行動を、こういう生物学的な戦略と捉えるとわかり易いんだ。彼女たちの場合、環境の急激な変化に対応して、蕾を一個だけ残すことにしたんだよ。そうすることで、十代後半の数年間だけだが、本来なら決して望めない豪奢と快楽、大輪の花を手に入れられるというわけだ。
M・K・シャルマ著『喪失の国、日本』(文春文庫)より抜粋
インド人ビジネスマンの日本体験記からの抜粋だが、思わず、そういうこともあるかも、と合点した。上の引用は著者であるシャルマ氏の意見ではなく、氏が話を聞いたある西洋人の観察結果というのがまた面白い。
こういうファーストハンドの経験を通じ、自分の肌感覚とすりあわせる、その中で気付きがある、それがやはりコンテキスト理解の基本なのだろう。
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これからの限られた人生の中で、いくつ知らないコンテキストに触れ、理解することが出来るだろうか
、、、そんなことを灼熱の夜にふと思う。
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(参考)本エントリで引用した本
、、、レビューを読むと創作ではないかとかいろいろ書いてありますが、たとえそうだとしても相当面白く読める本です。表紙に写っている原著の表紙を知り合いのインド人に読んでもらったところ、確かにこの著者による本のようです。Remembering Japanというのが原題の意味のようです。
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ps. 震災があり、全く着地しないフクシマの問題があり、何を書いても、、、という気分が長らく続いていましたが、精神のリハビリもかねておいおいと何か書いていければと思います。
ps2. twitterでのアカウント、2年以上ほとんど止まっていましたが、徐々に使い始めました。ハテナと同じハンドル名です(@kaz_ataka)。よろしければご笑覧ください。
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