2012年5月14日月曜日

アパラチアとオザーク山地


米国の地理の概要 - 第 7 章

アパラチアとオザーク山地

  ニューヨーク州からアラバマ州まで広がるアパラチア山地と、オザーク・ウォシタ山地との間は、400キロメートルほど離れている。しかし実際には、この2つの山岳地域は1つの自然地理学的地域に属しており、地勢学的に強い類似性を持っている。また、地勢と人間の定住の間には、ほかに類を見ないほど密接な関連性がある。

  初期の開拓者たちは、植民地時代の米国に上陸すると、西方に高い山々が広がっているという噂を耳にした。実際に山に入ってみると、その高さが誇張して伝えられていたことがわかった。アパラチアにしろオザークにしろ、米国西部でよく見られるような、ドラマチックな眺望が得られるのは、ごくわずかな場所だけである。

  しかし、地理に詳しい人々のほとんどは、アパラチアとオザークの地形を山岳性と呼ぶことに賛同するだろう。土地によっては高低差が500メートル以上の場所が多く、時には1,000メートル以上に及ぶところもある。傾斜が急な場所も多い。

  アパラチア地域の人文地理学的特徴は、今でもその地勢と密接に絡み合っている。ここに山がなければ、この地域は「深南部」のように、単に隣接するいくつかの地域の一部でしかなかったはずである。山があればこそ、「アパラチアとオザーク山地(Appalachia and the Ozarks)」は、ほかの地域とは違う特徴を持った、いかにも米国らしい1地域として存在しているのである(地図6:23K)。

変化に富む地形

  アパラチア地域は、少なくとも3つの自然地理学的地域で構成されている。この3つに分けた小地域は、概して北東から南西へと、帯状に並んでいる。

  最も東に位置する「帯」がブルーリッジ山脈である。「先カンブリア代」の古い岩でできたこの地域は激しく侵食され、現在の最高標高は、影も形もないほど低くなっている。大西洋沿岸の南部低地のうち、ピードモント台地は、ニューヨーク州からアラバマ州まで続くアパラチア山脈の東側で、ブルーリッジ山脈と境界を接している。

  ブルーリッジ山脈は、全体として北から南に向かって、高さと幅が増している。南の部分、特にバージニア州ロアノークの南側に、アパラチア地域で最も山が険しい場所がある。ピードモント高原からブルーリッジ山脈にかけては、標高が急激に大きく変化する。ペンシルベニア州とバージニア州では、ブルーリッジ山脈が、ピードモント高原と西のグレートバレーの間を貫く、細長い尾根になっている。この尾根はノースカロライナ州とテネシー州の州境に沿って広がり、最も広い場所では幅150キロメートルにも及ぶ。

  ブルーリッジ山脈の西には、尾根と渓谷の地域がある。ここは、ブルーリッジ山脈とロッキー山脈の間にある広大な堆積岩盤の一部である。この岩盤の東端は激しく褶曲して断層を形成し、それが直線的に連なっている。

  尾根と渓谷の地域の幅は、平均およそ80キロメートルである。谷を隔てて高さ100メートルから200メートルの多数の尾根が、そびえている。尾根には比較的切れ目が少なく、その大半はこの地域の景観を横切って流れる川によって作られたものである。幅が数キロメートルにも及ぶ渓谷は、アパラチア地域で最も肥沃な農地を提供している。この地域全体の尾根は比較的侵食に強い頁岩や砂岩でできていることが多く、通常、渓谷の地面は石灰岩でできている。

  これらの尾根のうち最も東側にある尾根とブルーリッジ山脈の間に、グレートバレーがある。このアパラチア地域のほぼ全体を縦方向に走るグレートバレー(ほとんどのところで、平坦というよりは小高くなっている)は、歴史的に見て、米国の重要な交通路の1つであり、山脈そのものを除けば、地形的特徴の中で何よりもアパラチア地域の人々を最も強く結びつけてきた要素である。

  アパラチア地域の最も西側にあるのがアパラチア高原である。その東側はアレゲーニー・フロントと呼ばれる険しい急斜面に接しているが、ここはロッキー山脈より東にある場所としては、西への移動を妨げる、最も大きな難所だった。この地域の地形は、その大部分が、内陸低地の水平な地層が川の流れで侵食してできたものである。侵食によって、険しく切り立った尾根と狭い渓谷が隣接する、起伏の激しい、複雑な地形が生まれた。ニューヨーク州とペンシルベニア州に位置するアレゲーニー台地の北の部分には、南側より丸みのある、穏やかな景観が広がっている。一部を除き、平らな土地はほとんどない。多くのコミュニティは、峡谷の限られた平地に押し込められている。


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  オザーク山地からウォシタ山脈に至る高地の地形は、アパラチア山脈とほぼ同様の地勢学的区分に属するが、全体として北東から南西ではなく、東西に流れている。ウォシタ山脈の南には、褶曲した尾根と渓谷が平行して連なっている。アーカンソー川流域の樋(とい)のような構造が、谷間がウォシタ山脈とオザーク山地を分けている。オザーク山地は、高原が侵食されてできた、凹凸の激しい丘陵地帯で、アパラチアの台地部分とよく似ている。

アパラチア地方の人々

  開拓者がブルーリッジを越えてアパラチア高地まで入ってきたのは、移民が東海岸に最初に住み着いてから150年後の、植民地時代の終わりごろだった。グレートバレーとその向こうにある山岳地域への経路として、もっとも容易で、最初に使われたルートは、ブルーリッジの高さが丘陵地帯とほとんど変わらない、ペンシルベニア州南東部にあった。多くのペンシルベニア住民たちは、北と西に広がる山地は住むのに適さない土地であると考えた。この結果彼らは、徐々に渓谷を下ってバージニア州に定住するようになった。そしてさらに、南部の低地から内陸に移動する人々がそこに加わった。

  その後、18世紀も終わるころになって、人々は周辺の高地にある渓谷や谷間に住むようになった。彼等が選んだ土地は、さらに遠くの西方にある地域と比べて痩せていた。起伏が激しく、寒冷な高地気候だったため、この地域のほとんどは農園経営に適していなかった。一握りの大規模農園が発達したのは、もっと広い一部の低地だけだった。

  18世紀末から19世紀初頭にかけて開拓者がこの土地に来たとき、この地域は小規模農業に適している可能性も十分あった。農民1人が管理できる開拓地は、面積にして約10-20ヘクタールにすぎず、このような狭い土地であれば、渓谷にも存在した。森林は猟獣の獲物であふれ、木材も豊富だった。そして、森や山の牧草地で家畜を放牧することもできた。当時の基準では、これはなかなかの土地と言えたため、すぐに農民が山に定住するようになった。

  この地域の大半は、次第に他の地域から隔絶し、孤立していった。より平坦で肥沃な土地が西部で開拓され、穀物生産が機械化されるにつれ、小規模なアパラチア農場の経済的重要性は次第に低下していった。バージニア州の西端に位置するカンバーランド・ギャップや、そこからケンタッキー州のブルーグラス盆地に至る「ウィルダネス・ロード(Wilderness Road)」などのような、この地域を走る有名な交通路でさえも、実際には曲がりくねった、進むのが困難な道だった。

  北東部海岸線と五大湖地方の東西間の移動には、アパラチア高地北部を避け、モホーク・コリドーを通る平坦なオンタリオ湖畔の道が使われた。アパラチア高地南部には、簡単に進める経路が全くなかった。主要な鉄道路線は、この地域を迂回して作られていた。

  アパラチア地方、特にその南部では、大都市の発展が遅れていた。ひとつには、この地域が南部のほかの地域と同様、農業に力を入れていたからである。他の地域で製造業や都市生活への転換が猛烈な勢いで進み始めた後も、この農業一辺倒の状況はしばらく続いた。また、アパラチア地域の産物は種類が少なく、都市の製品やサービスに対する需要も限られていた。これに加えて、輸送手段にも乏しかったのである。

  大規模農場が生まれず、都市開発も進まなかったことの重大な結果として、初期の開拓者以降、新しい移住者がこの地域に入植してくることはほとんどなかった。初期の開拓者たちは今いる場所に住み続ける傾向があり、時間の経過とともに家族、地域共同体、土地に対する愛着が増していった。このように地域住民の移動が少なかったことから、米国のほかの地域では見られないような、独自の文化的特徴が発達した。アパラチアは単に昔のままでいることによって、ますます独自性を高めていった。

  アパラチア地方の住民は比較的貧しい。地域によっては、1940年代に採炭が機械化され、地域の労働需要が大幅に減少したことが、貧困の主な原因と見ることもできる。これは特に、アパラチア地方の主要石炭産出地域であるケンタッキー州東部にあてはまる。

  アパラチア住民の生活態度は保守的である。米国で最も保守的なプロテスタント教会の多くは、アパラチア地方に由来を持つ。また、山の住民が移住して自分たちの宗教を持ち込んだ場所を起源とする教会もある。政治的には、この地方選出の公職者のほとんどは決定的に保守的だが、地方ポピュリズムの要素も見受けられる。この地方偏愛主義は、相対的な孤立状態の中で生まれた家族やコミュニティの強い絆により育まれた。この絆によって家族やコミュニティの結束が固くなり、ほかの地域との関係が弱まっている。


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  この地域の南部は、最もアパラチア的な色彩が濃く、多くの米国人もアパラチアと認めている場所である。しかし、この地域の住民についてここで述べてきた事柄の多くは、オザーク山地や、もっと北のアパラチア地方にも当てはまる。

  アパラチア北部とアパラチア全域とのつながりは、南部に比べて不明確である。確かに、山の多い地形を共有しているし、険しい傾斜で初期の開拓が困難だったことも共通している。しかし、南部と比べてさほど貧困ではない。また、初期の北西ヨーロッパ系の開拓者に続いて、比較的新しい移民がこの地域に入植している。特にペンシルベニア州とウェストバージニア州北部では、19世紀末から20世紀初頭にかけて、炭鉱の仕事が多くの東欧系移民をこの地に引き寄せた。

  宗教を筆頭に、アパラチア地方北部の文化様式の多くは、南部高地とはまったく違っている。キリスト教原理主義教会はそれほど一般的ではなく、多くの郡、特にペンシルベニア州内では、カトリック教徒と、様々な会派の東方正教会の教徒が過半数を占める。

  アパラチア地方北部の輸送網は、南部よりも急速に充実していった。その一因としては、南部と比べて山が連続しておらず、標高も低かったため、切り開くのが容易だったことを挙げることができる。また、中西部の北部が急速に発展すると、アパラチア北部は、北米大陸の主要な商業・製造業発展地帯の中心になった。製造業の中核地域の東西を結ぶ輸送網が山岳地域を貫いて急速に発展した。この結果、アパラチア地方北部、特にペンシルベニア州中部と西部およびニューヨーク州では、アパラチア南部と比べて経済が著しい発展を遂げた。

経済的特徴と定住パターン

  アパラチア地方に対して米国民が抱くイメージが「田舎」であることは疑いない。これはある程度当たっている。この地域の都市化の比率は、全国平均のおよそ半分でしかない。住民の大多数は、農村人口、または農村の非農家居住者人口(農村に住むが、都市の職業に従事している人々)に分類されている。しかし、アパラチア地方の高い農村の人口密度は、大規模な商業的農業システムによって支えられているわけではない。むしろ、農村人口密度の高さは小規模農業や鉱物資源(主に石炭)に依存している。

  アパラチアは米国で自作農が最も盛んな地域であり、ケンタッキー州とウェストバージニア州が、この分野でこの国をリードしている。アパラチア地方には重要な商品作物がないため、初期に小作制度が発展することはほとんどなく、その傾向は今も残っている。

  アパラチア地方の平均的な農場の広さは約40ヘクタールしかない。さらに、この地域の大部分は地形が険しく、土壌もやせており、耕作期間も短い。このため、農作物栽培に適した土地が限定される結果となり、相対的に放牧や牧畜に力を入れるようになった。畑が狭く、渓谷に散らばっているため、大規模農業機械を効率的に使うことはほぼ不可能である。これら諸々の要因がすべて重なった結果、農業収入は低い。地域の農民の大多数は副収入を得るためにパートタイムの仕事につき、やっと農業を続けている。

  この地域のほとんどで見られる農業は、一般農業と呼ばれる。つまり、特定の生産物ないしその組み合わせが、農家の収入の大部分を占めることがない、という形態だ。険しい斜面の農業利用に最も一般的で、恐らく最も適しているのは、粗放的な畜産業である。渓谷地域では、タバコ、リンゴ、トマト、キャベツなど多数の作物が、地域的重要性を持っている場所もある。狭い畑で栽培するタバコが、アパラチア南部では最も一般的な換金作物である。トウモロコシはこの地方で最も重要な条播作物だが、通常は家畜の飼料として使われる。

  このように、この地域の農業パターンは収支ぎりぎりといったところだが、いくつかの重大な例外がある。例えば、バージニア州のシェナンドア川流域は、かつてバージニアの穀倉地帯と呼ばれていたが、深南部とグレートプレーンズの肥沃な草原地帯で栽培される小麦との競争によって、19世紀末に、小麦の市場から締め出されてしまった。今でも秋蒔き小麦は栽培しているものの、飼料用の干草とトウモロコシ、そしてリンゴがこの地域の主要作物となっている。七面鳥の飼育も地元では重要である。ペンシルベニア州中部の多くの渓谷では、酪農とリンゴの生産が重要である。テネシー川流域も立派な農業地帯であり、飼料用作物と畜産が最も重要である。

  アパラチア地方の大部分で、農業の強力な相棒とも言える産業は、石炭である。アレゲーニー台地のほぼ全域で、地下には一連の瀝青炭層が広がっており、全体として世界最大の瀝青炭鉱地区を形成している。侵食活動によってアレゲーニー台地の起伏に富んだ地形を作り出したものと同じ水流の働きで、石炭層は露呈している。


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  アパラチアの石炭は、1860年代の南北戦争直後に重要性が高まった。コークスを燃焼させる新たなタイプの鉄鋼炉の開発によって、こうした新たな需要が生み出された。というのも、コークスは瀝青炭を加工して作られるからである。この時代に、ペンシルベニア州南西部とウェストバージニア州北部の厚い石炭層から燃料を得て、ペンシルベニア州ピッツバーグは「鉄鋼の町」としての地位を確立した。20世紀になってエネルギー源として電力が使われるようになると、アパラチアの石炭は、東海岸沿いや内陸の製造業の中心にある発電所に、燃料を供給した。

  ほぼ1世紀にわたって成長を遂げた後、石炭産業は1950年代から斜陽の時代を迎えた。石油と天然ガスが石炭に替わる主な燃料源になると、石炭の生産量は落ち込んだ。1950年から1960年にかけて、石炭を主要産業とする多くの郡は、人口の4分の1を完全に失った。その結果もたらされた経済不況と、アパラチア地方に特有の貧困とが重なって、ここは特に難しい問題を抱える地域となった。

  今日では、電力需要の増加に加え、石油の埋蔵量と採掘コスト、原子力の安全性に関する絶え間ない懸念から、発電における石炭の必要性が再認識されている。新しい発電所では、地元産の石炭を大量に使って発電しており、その大部分は地域外にも送電される。毎年1億トン近くのアパラチア石炭が輸出されている。

  アパラチア石炭の採掘にはいくつかの方法がある。最初に使われたのは、坑内採鉱または縦坑(立坑)式採鉱と呼ばれる方法であり、特にこの地方の北部では今でも重要な採鉱方式である。現代の坑内採鉱技術(巨大な可動式ドリルと連結した採炭機械を使って石炭を石炭層からはがし、ベルトコンベアの上に乗せて地上まで運ぶ)を使えば、毎分数トンの石炭を石炭層から採ることができる。

  露天採鉱は、石炭層が地表近くにある場合には、かなりコストを抑えられる方法であり、重要度が著しく高まっている。今日最も重要な石炭の産地であるこの地方の中央部(主にケンタッキー州東部、バージニア州西部、ウェストバージニア州南部)では、大型機械を使って石炭層の上の斜面から岩を取り除き、露呈してきた石炭を垂直に持ち上げるだけである。斜面に沿っていくつかの石炭層をこの方法で採掘すると、独特な階段状の形状ができあがり、遠くからは、上に行くほど小さくなる箱が、いくつも重なり合っているように見える。

  ケンタッキー州で採掘される石炭のおよそ半分と、オハイオ州とアラバマ州産の石炭のほとんどは露天鉱から採掘され、またペンシルベニア州、バージニア州、ウェストバージニア州産の石炭のほとんど、そしてアパラチア地方全体で採掘される石炭の3分の2には、縦坑式採掘法が使われている。

  アパラチア地方で最初の重要な炭田は、台地にある瀝青炭田ではなかった。その前に、ペンシルベニア州内の尾根と渓谷の地域の北端にある、無煙炭の開発が行われた。無煙炭は硬くて、煙の出ない、暖房用の石炭である。1860年代に瀝青炭からコークスを作る技術が開発されるまでは、鉱石の溶解に使う主要燃料でもあった。暖房用石炭の使用量が減少したことに加え、無煙炭の代替用途がなかったことから、無煙炭生産地は経済不況に陥った。無煙炭の埋蔵量は依然、豊富だが、今日の産出量はごくわずかである。

  石炭はアパラチアの人々にとってありがたくもあり、また迷惑の種でもあった。石炭はこの地域の大部分にとっては、長い間経済的な大黒柱であり、直接または間接的に何十万人もの労働者を雇用してきた。しかし一方で、何万という人が採掘関連の事故で犠牲となった。また、長年炭塵を吸いつづけてきた結果、炭塵肺症に苦しむ人が無数にいる。近年、市場の需要増に対応して産出量が回復しているが、これは機械化が大幅に進んだことが主な要因である。ほとんどの採掘権は、これを早い時期に低価格で取得した企業が保有している。アパラチア地方の多くの州は、自州で採掘された石炭に課税したり、税率を引き上げたりしているが、石炭税は今も低率で、石炭収益のほとんどは外に出て行ってしまう。

  その他の採鉱事業として、オクラホマ、カンザス、ミズーリの州境が接するオザーク山地の「トライステート(3州)」地域が、古くから鉛採掘の主要地域だった。アパラチア地方の外に位置するミズーリ州南東部では、250年以上にわたって鉛が産出しており、その露天鉱床は今でも米国で最も重要である。米国でこれまでに採掘された鉛のほとんどはミズーリ産である。同州は現在、全米の総産出量の4分の3以上を占めている。

  米国で最初の油井が掘られたのは、1859年、ペンシルベニア州北部でのことで、その後ほぼ19世紀を通じて、石油生産で米国をリードしていた。今日、この地域が供給する原油だけでは、国の需要のごく一部しか満たすことができないが、依然として高品質の石油や潤滑油の重要な産地の1つである。


  最後に、テネシー州南東部は、米国内に残っている最も重要な亜鉛生産地である。さらに、ノースカロライナ州とジョージア州の州境に近いテネシー州ダックタウンの周辺にはいくつか銅山があり、ミシシッピ川東岸で唯一の主要銅産地となっている。

地域開発プログラム

  石炭と同様、アパラチアの河川も、この地域にとってはありがた迷惑な代物だった。確かに、重要な輸送ルートとなった川もいくつかあるし、最も初期の時代の製粉所や製材所は、水力を利用していた。しかし、これらの河川には負の側面もあった。豪雨になると、狭い渓谷を頻繁に洪水が襲ったからである。南部の山岳地方は、西の太平洋沿岸を除けば米国内で最も雨の多い地域である。

  これらの河川の1つであるテネシー川を安全管理したいという願いから、米国史上最大で、おそらく最も成功を収めた地域開発計画が実施された。1930年代に、テネシー川を利用してその流域全域の経済状況を改善するための計画が立案された。そして、このテネシー川流域開発公社(TVA)に最初に与えられたのは、テネシー川を開発して航行に適した川にする任務だった。今日では、喫水3メートルのはしけ(艀船)が航行できる水路が、はるか上流のテネシー州ノックスビルまで続いている。

  このほかのTVAの活動は、そのほとんどが、最初の任務の論理的延長線上にあると見ることができる。水路の開発には、流量を確保し、洪水を減らすための一連のダムの建設または購入が含まれていた。ダムがある以上、水力発電所も併設するのが当然だった。今日では、TVAがテネシー川とケンタッキー川で管理する30以上のダムのほとんどに、発電施設が備わっている。とは言うものの、TVA施設で作られる電力の約80%は、石炭を燃料とする10基を含む火力発電所と、数カ所の原子力発電所で発電される。TVAは年間5,000万トン近くの石炭を使っており、アパラチア地方最大の石炭使用者である。

  安価な電力に引き寄せられて、ノックスビルの南の大規模アルミ加工施設など、電力を大量に使用するいくつかの産業が、テネシー川流域に集まってきた。米国で最初の原子力研究施設は、ノックスビルの西にあるオークリッジに置かれたが、その理由のひとつは、大量の電力が入手できたことにあった。ノックスビルやチャタヌーガ、ブリストル・ジョンソンシティ・キングスポートの「トライ・シティーズ(3都市圏)」は、すべて重要な製造業の中心地である。TVAはまた、もう1つの電力大量消費型産業である化学肥料の主要な開発・生産者にもなった。

  TVAは、ダムの上流域の農民を支援して、川による農地の侵食を抑制する重要なプログラムに着手した。その目的は洪水の原因となる水の一部を農地で吸収させ、湖がシルト(土砂)で埋まるのを遅らせることにあった。

  TVAは、川そのものだけでなく、その沿岸の一部にある52万ヘクタールの土地も所有していた。この土地の中に大型の公共のレクリエーション地域が開発され、現在では立派なレクリエーション施設となっている。

  連邦議会は1965年に、アパラチア再開発法を可決し、アパラチア地域委員会(ARC)が設立された。同委員会はニューヨーク州からアラバマ州までの地域を管轄し、これまでに同地域の経済改善計画に数十億ドルを投じている。アパラチア地方の高速道路網を発展させることを主眼としたもので、それによって、この地域の孤立した状況を緩和し、製造業をこの地域に誘致することを期待している。

  もう1つの政府の活動であるアーカンソー川航行システムは、1960年代から70年代にかけて建設され、1971年に開通した。アーカンソー川とミシシッピ川の合流地点から、タルサのわずか下流にあるオクラホマ州カトゥーサまで、喫水3メートルの船が航行できる運河が作られたのである。その結果、はしけの輸送量と同時に、アーカンソー川の水量を安定させるために建設された多くのダムによる水力発電量も増加した。

  この地域の未来はどうなるのだろうか。「アパラチアとオザーク山地」が「米国製造業の中核地域」になりそうもないのは確かであり、ここにはそれを望んでいる人もほとんどいない。それでも、変化の兆しは見える。ジョージア州、南北両カロライナ州、テネシー州の南部高地地方の一部では、レクリエーションを目的とした別荘の建設がブームになっている。ノースカロライナ州、バージニア州、そしてオザーク山地やウォシタ山脈には、富裕階級の逃避地がある。長期的に見れば、この地域から外への移住者は、まったくなくなることはないものの、減少傾向にある。また、この地域の住民1人当たりの所得と全米平均との格差も縮小してきている。経済的に最悪の時期は、おそらく脱したと言えるだろう。



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