ジェームズ・マディスン(英: James Madison、1751年3月16日 - 1836年6月28日[2])は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第4代アメリカ合衆国大統領(1809年-1817年)。ジョン・ジェイおよびアレクサンダー・ハミルトンと共にザ・フェデラリストを共同執筆し「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされる。対外宣戦布告をした初の大統領であり、また戦災により首都から避難した唯一の大統領でもある。かつて流通していたアメリカ5000ドル紙幣にその肖像を見ることが出来る。
「アメリカ合衆国憲法の父」としてマディスンは憲法の主要な執筆者だった。1788年、ザ・フェデラリストの3分の1以上を執筆しており、これは今でも憲法に関する影響力ある解説になっている。アメリカ合衆国下院議員を務めたことでは最初の大統領でもあり、アメリカ合衆国議会第1会期ではその指導者として多くの基本的な法律を起草し、アメリカ合衆国憲法の最初の修正条項10か条(バージニア権利章典に基づいたと言われている)を起草し、その成立に尽力したので権利章典の父とも呼ばれている[3]。政治理論家としてのマディスンの最も明確な信条は、新生間もない共和国が多数の専制から個人の権利を守るために抑制と均衡が必要ということだった[4][5][6][7]。
マディスンはアメリカ合衆国下院の指導者として新しい連邦政府を組織化するためにジョージ・ワシントン大統領と密接に動いた。1791年にはアメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンと袂を分かち、トーマス・ジェファーソンと共に「共和党」(後の民主共和党)と呼ぶものを創った[8]。この党は連邦党の主要政策、特に合衆国銀行とジェイ条約に反対した。1798年にはジェファーソンと共に匿名でケンタッキー州およびバージニア州決議案を書き、外国人・治安諸法に抗議した。
マディスンはジェファーソン政権の国務長官として、ルイジアナ買収を監督して国土を2倍にし、1807年の不運に見舞われた通商禁止法を提案した。大統領としてはイギリスに対する米英戦争を率いた。その戦中と戦後、その政治姿勢の多くを逆転させた。1815年までに第二合衆国銀行創設を支持し、強い軍隊および戦中に開業された新しい工場を守るための高関税を支持した。
[編集] 生い立ち
マディスンは1751年3月16日(ユリウス暦では1751年3月5日)、バージニア州キング・ジョージ郡ポートコンウェイで生まれた。12人兄弟の1番目であり、弟妹は9人が成長した。彼の両親ジェームズ・マディスン・シニア大佐(1723年3月27日 - 1801年2月27日)とエリナー・ローズ「ネリー」コンウェイ(1731年1月9日 - 1829年2月11日)夫妻はバージニア州オレンジ郡 (バージニア州)オレンジ郡にタバコ・プランテーションを所有し、ジェームズは幼年期の多くをそこで過ごした。父はさらに資産を増やし、オレンジ郡では最大の土地(5,000エーカー、4km2)所有者かつ指導的存在になった。母はポートコンウェイの著名な農園主かつタバコ商人の娘だった。両親は1743年に結婚していた。どちらもその息子に大きな影響を与えた。
マディスンには成長した3人の弟と6人の妹がいた。その弟妹達から30人以上の甥姪が生まれた。弟妹は以下の通り。
- フランシス・マディスン(1753年-1800年): オレンジ郡の農園主
- アンブローズ・マディスン(1755年-1793年): 農園主、バージニア民兵隊大尉、オレンジ郡の資産の面倒を見た、父方の祖父から名前を貰った
- カトレット・マディスン(1758年-1758年): 幼児に死亡
- ネリー・マディスン・ハイト(1760年-1802年)
- ウィリアム・マディスン(1762年-1843年): 独立戦争古参兵、弁護士、バージニア州議会議員
- サラ・カトレット・マディスン・メイコン(1764年-1843年)
- 無名(1766年)
- エリザベス・マディスン(1768年-1775年)
- 無名(1770年)
- ルーベン・マディスン(1771年-1775年)
- フランシス・"ファニー"・マディスン・ローズ(1774年-1823年)
マディスンは11歳から16歳までキング・アンド・クィーン郡アイネス・プランテーションの教師だったドナルド・ロバートソンの教えを受けた。ロバートソンは南部州に多いスコットランド出身の教師だった。マディスンは数学、地理および現代と古典の言語を学んだ。特にラテン語は流暢に話すようになった。マディスンはその勉強好きを「大いにあの人(ロバートソン)」に負っていたと言っていた。
1767年、16歳の時にマディスンは、モントピリアでトマス・マーティン牧師についてカレッジに入るための2年間の学業を始めた。当時カレッジを志向する大半のバージニア人とは異なり、ウィリアム・アンド・メアリー大学を選ばなかった。なぜならばその大学のあるウィリアムズバーグの気候は彼の繊細な健康状態に合わない怖れがあったからだった。その代わりに1769年にプリンストン大学(当時はニュージャージー大学と呼ばれた)に入学した。
勤勉さと長時間の勉強でその健康を損ねた可能性はあるが[9]、1771年に大学を卒業した。そこで学んだのはラテン語、古代ギリシャ語、科学、地理学、数学、修辞学および哲学だった。演説と討論にも非常な重きが置かれた。卒業後はプリンストンに留まってジョン・ウィザースプーン学長の下でヘブライ語と政治学を学んだ後、1772年の春にモントピリアに戻った。その後、ヘブライ語を完全にマスターした。散発的に法律を勉強したが、法廷弁護士にはならなかった。
[編集] 結婚と家族
マディスンは1794年9月15日に、現在のウェストバージニア州ジェファーソン郡で未亡人のドリー・ペイン・トッドと結婚した。マディスンは結婚後にドリーの連れ子ジョン・ペイン・トッドを養子にした。ドリーは、その両親のジョンとメアリー・コールズのペイン夫妻が短期間住んだノースカロライナ植民地のニューガーデンクェーカー開拓地で1768年5月20日に生まれていた。ドリーの姉妹ルーシー・ペインはワシントン大統領の甥であるジョージ・ステップトー・ワシントンと結婚していた。
マディスンは連邦議会議員として、当時国の首都だったフィラデルフィアの社交界でトッド未亡人と出会った可能性が強い。1794年5月、互いの友人であるアーロン・バーに紹介を頼むことで正式な付き合いを始めた。その出逢いからスムーズな交際に移行し、8月にはドリーがマディスンの求婚を受け入れた。ドリーは非クエーカー教徒であるマディスンと結婚することでクエーカー教からは追放された。
[編集] 初期の政歴
マディスンは若き弁護士として、イングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプテストの説教師達を弁護した。さらに説教師エライジャ・クレイグと共にバージニアにおける信教の自由を憲法で保障するために動いた[10]。そのような事例で活動することで、信教の自由に関する概念を作り上げるために効果があった。マディスンは1776年から1779年にバージニア邦議会議員を務め、トーマス・ジェファーソンの弟子として知られるようになった。バージニア信教の自由法の起草を手伝い、バージニア政界で名声を得た。この法はイングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除するものだった。パトリック・ヘンリーが考えた市民にその選択する宗教会派に献金することを強制する案を排除した。
マディスンの従兄弟ジェイムズ・マディスン主教(1749年-1812年)が1777年にウィリアム・アンド・メアリー大学の学長になった。マディスン主教はマディスンやジェファーソンと共に密接に動いて、この大学をイギリスとイングランド国教会の双方から分離させるという難しい変化を通じて指導することに貢献した。さらに大学と州を指導して独立戦争後にバージニア聖公会教区を形成することになった。
マディスンはバージニアが北西部領土に対する領有権主張を放棄して連合会議に渡すよう説得した。北西部領土とは現在のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ミシガン州およびウィスコンシン州の大半と、ミネソタ州の一部であり、1783年の北西部条例で形成された。バージニアの領有権主張は、コネチカット州、ペンシルベニア州、メリーランド州およびその他の州からの領有権主張と一部重なるところがあった。これら全ての州が、新しい国家はこれまでと同様土地から造られるという理解の元にその西方の土地を割譲した。マディスンは1780年から1783年まで大陸会議(1781年から連合会議)の代表となり、立法の推進役と議会における連衡形成の達人と見なされた[11]。1784年から1786年には再度バージニア邦議会議員に選出された。
[編集] 憲法の父
詳細は「アメリカ合衆国憲法」を参照
マディスンは独立戦争が終わる頃にバージニア邦議会に戻った。間もなく、連合規約の脆弱さ、特に邦政府間の不和に気付くようになり、新しい憲法の制定を強く提唱した。1787年のフィラデルフィア憲法制定会議では、マディスンが起草したバージニア・プランと三権分立による革新的連邦制度が今日のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。マディスンははにかみやだったが、連合会議では発言の多い方の代議員の一人だった。マディスンは各邦の行動が誤りと考えられるときは連邦政府がそれを却下できるという強い中央政府を考えた。後の人生でアメリカ合衆国最高裁判所がその役割を果たすようになったことで、それを称賛するようになった[12]。